舞台を観て”気になるあの人”を直撃する企画「逸材フラゲ!」。第3回は豊原江理佳さんに注目!豊原さんは、城田優さんが初めて演出を手掛けたミュージカル『アップル・ツリー』のオーディションで選出され、以降、ミュージカル作品を中心にご活躍されています。
異国情緒を漂わせるお顔立ちと、透明感とパワフルさを兼ね備えた歌声が魅力。池田純矢さんが作・演出を手掛けるエンゲキ#4『絶唱サロメ』や、ノゾエ征爾さん演出の『ピーター&ザ・スターキャッチャー』などで見せてくれたしなやかな中に秘めた強い印象とは裏腹に、とってもシャイだいう豊原さん。ドミニカ共和国と日本のハーフという出自に悩んだ10代の頃のこと、役者という仕事への目覚め、そして、ミュージカル『ゆびさきと恋々』で初の主演を務めることについて、赤裸々に語ってくれました。
外国にもルーツを持ってる。でも心は日本人。それが私です。
――まず、豊原さんご自身を一言で表すと?
やっぱり、ドミニカ共和国と日本のハーフです。父親がミュージシャンで、生まれた時からずっと家に音楽があったというのが、私の中で大きく占めていて。今、ミュージカルをやっているということにも繋がっているんじゃないかなと思っています。日本人であり、外国にもルーツを持ってる、でも心は日本人。それが私だと思います。
――ドミニカ共和国には何歳までいらっしゃったんですか?
実際に住んでいたのはすごく短くて、1歳の時にはもう日本にいたので、正直、ドミニカの記憶はあまりないんですけど、最近、そのルーツを取り戻そうとしています。ドミニカの母国語はスペイン語なんですが今は話せなくなっているので、また勉強し直しています。
――お父様がミュージシャンということは、小さい頃から国際色豊かな音楽に触れていたんですね。
そうですね。父の作曲する曲はサルサやメレンゲなどのラテン系の音楽だったので、踊りがセットになっていましたね。打楽器の音がすごく多いので、リズムと踊りは、小さい頃から養われていたと思います。それから、父はカトリックなので、父の音楽と宗教にはとても密接な関わりがありました。
心の拠りどころだった映画、そしてミュージカル『アニー』という経験
――そんな中、豊原さんが役者というお仕事に興味を持ったのは、いくつくらいだったんですか?
役者自体に興味持ったのは、高校生ぐらいの時で。私の実家は大阪なんですけど、東京に比べると劇場の数がすごく少なくて、10代の頃はチケット代に手が出なくて舞台をたくさん観に行けなかったので、観るものは主に映画でした。映画が大好きだったので、毎日レンタルビデオ屋さんに行って借りたりしていました。
私が10代の頃って、まだハーフという存在が珍しかったんです。今はきっと一クラスに何人もいらっしゃると思うんですが、特に私が住んでいたところは田舎だったので、周りにハーフの子が全然いなくて。自分の“居場所”を見つけるのがすごく難しいと感じていたんです。
映画は、いろんな国で、いろんな人が、いろんな人生を歩んでいるということを、画面を通して見ることができる。「生きづらさを感じてるのは自分だけじゃないんだ」「いろんな人が、いろんなことを思いながら生きてるんだ」っていうのを、映画を通して知ることが、10代の私にとって心の拠り所でした。人生観を変えてもらったり、新しい価値観をもらったりすることがすごく多かったです。
ある時、そのたくさんもらったものを与える側になりたいなという気持ちが芽生えてきて。それで『アップル・ツリー』というミュージカルのオーディション受けたのが、今に至るきっかけでした。
――ちなみに、小さいの頃にミュージカル『アニー』へご出演経験がありますよね。舞台に関わったのは、それが最初ですか?
実は、その前に、市民劇団のようなところで一回だけ舞台に立ったことがあります。
――幼少期に舞台を経験されたのは?
私、3歳から剣道をやっていたんです。でも、喉にポリープが出来てしまって、辞めなければならなくなってしまって。週6ぐらいで剣道の稽古に行っていたので、やることが無くなってしまって(笑)。夏休みに市民劇団でミュージカルをやる企画を見つけて、1回だけ参加しました。
それが、すごく楽しくて!「ミュージカルやりたい」という気持ちになっていたら、母が養成スクールを探してきてくれて、通うようになりました。そこに、『アニー』に出た経験のある子がいて。その子が、すごくかわいかったんです。キラキラしていて、ダンスも歌も上手くて、憧れのお姉さんという感じで。「私もこういう人になりたいな」と思いました。
それで、私も『アニー』のオーディションを受けることにしたんですけど、最初に受けた時は作品のことも知らないし、ミュージカル自体を観たことがなくて、ただ受けただけという感じで。まぁ、落ちたんですね(笑)。それがすごく悔しかったので、「次は受かりたい!」って1年みっちり練習して、出ることができました。12歳、小学校6年生の時の経験です。
――『アニー』のあと、高校生で役者に興味を持つまでは、演劇とは離れていらっしゃったんですか?
そうですね、『アニー』をやった時は芸能事務所にも入っていなかったですし、本当に普通の田舎の女の子だったので、そういう道があるとは考えもしなかったので・・・。「あー、楽しかった!じゃあ、学校行こう!」みたいな感じでした。今考えると、アニーを演じた時は、プロ意識に欠けることをしていたなってツッコみたくなります(笑)。
でも、舞台の上はすごく楽しかったです。当時、ハーフということを理由に学校でいじめられたりもしていたので、居場所がないと思っていました。でも、舞台の上では歌ったり踊ったり、自分の好きなことをしていいんだよ、のびのびと自由にしていいんだよって許可してもらえているみたいなのが、すごく楽しかった。でも、それを仕事にしたいとか、その当時は考えられる年齢じゃなかったんだと思います。
母も父も、芸能界に入れようとかそういう感じではなくて。でも、高校は英語教育に力を入れているところへ行かせてもらったので、留学したりしていました。その留学先で、演劇部に入ったりして、ちょこちょこ演劇には携わっていましたね。ダンスも続けていましたし、完全に断ち切っていたわけじゃなかったんですけど、楽しみの一つでした。
起こるべくして起こること
――留学はどちらに?
アメリカのミシガン州に行っていました。実は、その留学中にもう1回『アニー』をやってるんです。部活で1年に1回ミュージカルを披露する機会があったんですけど、その演目が『アニー』で。ちゃんとオーディションもやって、アニー役になりました。だから、『アニー』は実質2回やっていたんですね。
――それは、知られざる過去ですね・・・!
それから、19歳の時に一人でドミニカに行きました。上京する前に、3ヶ月のビザを使ってニューヨークにダンスとお芝居のワークショップを受けに行っていたんです。その時、ホームステイをさせてもらっていたのが、父のミュージシャン仲間の方の家で。
実は私、4歳くらいの頃から父はドミニカ、私と母は日本と離れて暮らしていたんですね。その父が、ホームステイ先に私がいると知らずに電話をかけてきたんです。そのおうちに電話がかかってきたのも10年ぶりくらいだって言っていたので、本当に偶然でした。私自身、父と離れて暮らすようになってから話す機会がまったくなく、その時に代わってもらった電話で久しぶりに言葉を交わしました。父も私も号泣でした(笑)。それを見ていたミュージシャン仲間の方が「会いに行く?」って言って、飛行機のチケットとかも全部手配してくださって。その電話の次の日には、もうドミニカに発っていました。
私は特定の宗教を信仰しているわけではありませんが、その時は「行きなさい」って神様に背中を押されているように感じました。その後、東京に出てくるなど、いろんなターニングポイントがありましたが、人生には起こるべくして起こることがたくさんあるんだなと節目節目で実感しています。
ドミニカに行ったことで、それまで自分が無くしていた心のピースを取り戻した感覚になり、自分が半分ドミニカ人であるということをポジティブに捉えられるようになったかなと思います。今はもう、自分を構成するものをまるまる含めて全部個性だと思えているし、その個性を受け入れた時に他の人の唯一無二な部分や魅力にも気づけるようになった気がします。自分のルーツを取り戻すことで得たこういう感覚は、今、役者というお仕事をさせていただく上でも助けになっていると思います。
――いろんな人生の繋がりの上で、『アップル・ツリー』から始まる今の豊原さんがあると思いますが、そのオーディションを受けようと思ったきっかけは?
冒頭でもお話させていただきましたが映画が好きで、『アップル・ツリー』の演出をしてくださった城田優さんのお芝居にすごく感銘を受けていて・・・。役者に興味を持ってオーディションを探していた時に、その城田さんが初めて演出をされるミュージカルがあると知って、これは挑戦してみたい!と思って受けました。
――その時の手応えはいかがでした?
最後まで残ってるなという感覚はあったんですけど、合格した時はびっくりしました。帰り際に城田さんに「もし、出ることになった時に親御さんに反対されない?大丈夫?」って聞かれたことを今も覚えています。(当時は未成年だったので)その一言を言われた時に、「もしかして、出られるかもしれない!」ってちょっとだけ期待を抱いたんですけど、でもすごく魅力的な方ばかりで、合格をいただけるとまでは思っていなかったので、ただただ驚きでした。
人を「楽しませる」ことは喜び
――その後もオーディションの機会は多くあると思いますが、豊原さんはどんなことを心がけて臨んでいらっしゃるんですか?
私、こういうお仕事をさせていただいているにも関わらず、実はものすごく上がり症なんです・・・。舞台の上は、照明や衣装やセットなどの世界観が助けてくれたり、役として立っているのでわりと自由になれるんですけど、オーディションでは「私自身」を見られるし、審査員の方とも距離が近く、どうしても査定されるような感じなので、未だその場に慣れることができないですね受ける役のことが分かったら、ルックスや雰囲気をなるべく寄せて、台本の世界観を落とし込んだ上でオーディションに臨むようにしています。そうすると、自分が解放される感じがするので。
一つ、すごく印象深かったオーディションがあったんです。漫画原作で、アフリカ系のハーフの役のオーディションでした。その時も原作を研究して衣裳やも髪型を役に寄せて参加したんですよ。
そうしたら、オーディションの途中で「ちょっと待って、止めて」となって、「寄せてるよね?」って審査員の方々がめちゃくちゃ爆笑してくださって(笑)。オーディションが終わったあとに、スタッフの方が「参考用に写真を撮らせてください」って声をかけてくださったり。結局、そのオーディションには受かれず、その役を演じることはできなかったんですが、その場にいる人を「楽しませる」っていう感覚を得られたオーディションになりました。
――それは、審査員の方にも忘れられない記憶になったのでは・・・。
その後に、もう一回同じオーディションに違う役で呼んでいただきました。その時も、部屋に入った瞬間どっと笑いが起きるみたいな状態になりました(笑)。そういった感触のオーディションは初めてで、覚えていていただけたことが、すごく嬉しかったです。
自分のやっていることが吉と出るのか、凶と出るのか、未だに分からないのですが・・・。そのままの自分で受けた方がいい作品もあると思うんですけど、原作が漫画だったり、はっきりと役のイメージが決まっているものは「イメージが違う」という理由で落ちるのが嫌なので、落ちる理由をなるべく減らしたいと思って、取り組んでいます。
――では、役者として大きな出会いだったと思うことは?
22歳の時にRock Musical『5DAYS 辺境のロミオとジュリエット』でご一緒させていただいた、石丸さち子さんとの出会いが、すごく大きかったと思います。20歳で「役者」という仕事を始めてからの2年間は、「役者の仕事って何なのか」「自分は何を表現したいのか」、明確なものが定まらずにやっていたので、何が正解なのか分からず、舞台に立つ怖さもあったし、役作りもすごく不安定でした。石丸さんに出会ったことで、役者の仕事の在り方を一から徹底的に教えていただいた気がしています。
石丸さんは一見すごく厳しいように感じる方なんですけど、とにかくすごく愛があって、私の「魅力」をたくさん見つけてくださった方だなと思っています。私すらも分からなかった魅力を引き出してくれました。あの経験が、私の中で大きな扉を開いてくれた感覚があって、「私って舞台の上でこういうことができる人なんだ」という自信に繋がりました。だから『5 DAYS』を経てからは、舞台上で迷いや怖さを一切感じなくなって、「こうしたい」という意思や意図が明確に分かるようになりました。私にとって石丸さんの存在はすごく大きいです。
――その豊原さんの変化は、その後に出演された『絶唱サロメ』や『ピーター&ザ・スターキャッチャー』で濃密に感じられましたね。
ありがとうございます。『絶唱サロメ』は、座組の皆さんともよく話していたんですが、本当に不思議な作品で。物事の本質をついいる台詞が多かったんですね。だから、自分の人生もすごく重なって、演じているというよりは“自分を発見する旅”のようでした。作品の持つ力がものすごかったなと・・・。相手役の松岡充さんもすごくパワフルでまっすぐな方で、真正面からぶつかってきてくださり、不安な時は大きく包み込んでくださいました。他のキャストの皆さんも魅力的な方ばかりで、毎日が刺激的でした。今振り返っても、私にとって特別な作品だったなと思います。
『ピーター&ザ・スターキャッチャー』は、女性キャストが私1人だけの座組だったんですけど、皆さん本当に素敵な方々ばかりで。最年少でもあったので、お父さんが10人くらいいるみたいな感じで、楽しくて本番中毎日誰かの楽屋に遊びに行っていました(笑)。演じさせていただいたモリーは、作品を引っ張る役だったので、自分も作品を引っ張っていかなくてはという意識が芽生えた作品でもありました。それまでヒロイン役で参加している時は、「引っ張る」という意識が少なかったんですが、『ピーター&ザ・スターキャッチャー』では役の影響もあって、「この作品をお客様に届ける」という責任感がより一層強く生まれた作品になりました。コロナ禍ということもあり、劇場に足を運んでくださった方々に、少しでも元気を持ち帰ってもらいたいという気持ちも強くありました。
ありのままの自分を「個性」に
――6月に上演されるA New Musical『ゆびさきと恋々』では、初めての主演を務められますよね。
はい、初めて主演として参加させていただきます。今まで参加させていただいてきた作品で、いろんな座長の方々と一緒に舞台に立たせていただきました。その中で、自分のことだけを考えている方は誰一人いなかったということが印象的です。広い視野を持って、自分の役のことだけではなく、何よりも作品の成功を第一に考えるということを意識したいと思います。
前山(剛久)さんをはじめとする先輩方に助けていただきながら、作品と向き合いたいです。今までに出会ったことのない役ですので、徹底的にやりたいなと。
――雪という役は、現時点でどう捉えていらっしゃいますか?
雪ちゃんは、大学生活に憧れて、外の世界に飛び込み、友達や恋を通して成長していくという、どこにでもいる普通の女の子だと感じています。聴覚障がいがあるということが大きな特徴であり、個性ではありますが、私が10代の頃ハーフであることがコンプレックスだったように、誰もが何かしらのコンプレックスを抱えて生きているし、それは個性と言い換えることができるものだと思うんです。雪ちゃんは悲観的に捉えず個性として捉えていると感じます。人生に対して前向きで明るく、未知の世界に飛び込んでいける勇気のある子だと思うので、そういう雪ちゃん自身の個性を丁寧に表現したいです。
そして、観て下さった方にたくさん共感してもらえたら嬉しいです。自分にも嫌なところがあったけど、雪ちゃんを見てると自分がコンプレックスだと思っていたものは実は個性で、その個性を活かして輝けるかもしれない、とか。一歩踏み出してみたい、とか。雪ちゃんはそう思わせてくれるものがある女の子なので、そんな彼女に一歩でも近づけるよう役を作っていきたいなと思います。
個人的には、大学に途中までしか行っていないもので、雪ちゃんの大学生活に憧れます。バーで友達できるんだとか、川辺でキャンプとかいいなあとか(笑)。日常の中に描かれていく恋模様とか、友情とか、原作を読みながらキラキラしたキャンパスライフに憧れを感じてしまいました。
――心が荒みがちな今、観ていただきたい作品ですね。
私も、そのことを最近すごく考えるんです。人と人との間に出来てしまった壁をとっぱらいたいですよね。それは、私自身もハーフという出自からずっと感じてきたことで。相手を知りたいという気持ちや、思いやる気持ちがあれば分かりあえると思うし、コミュニケーションが減ってしまっている今だからこそ、コミュニケーションを題材にした作品を今上演することに意味があるのかなと思います。
私は美術館に行ったりすることもすごく好きなんですが、極論を言うと、芸術ってなくてもいいものなのかもしれませんよね。でも、少なくとも私にとってはなくてはならないもので、自分の10代の頃を振り返っても、人の傷を癒す力や元気にする力があるのも芸術だと思います。ミュージカルは、音楽やダンス、美術、照明と、いろんな芸術が組み合わさった総合芸術なので、この作品を観て、芸術のパワーで元気になっていただけたらと思っています。
――最後に、役者さんとしての今後のビジョンをお伺いできますか?
そうですね・・・どこか生きづらさを感じている人に、私が芸術からもらった「自分はそのままでいいんだ。とにかく生きていればそれでいいんだ」というようなメッセージを、自分の表現をを通して伝えられたらいいなと思います。きっと私はそのメッセージに救われて、今度はそれを人に伝えたくて、その方法が、私にとっては「表現」だったから、役者の道を選んだと思います。今、多様性を認め合うことが広がってきているように、私自身がハーフであることも踏まえて、ありのままの自分でただ生きていればいいんだということを一人でも多くの人に伝えていけたらいいなと思います。
出演情報
A New Musical『ゆびさきと恋々』
2021年6月4日(金)~6月13日(日) 本多劇場
キャスト・スタッフ
【出演】
豊原江理佳、前山剛久、林愛夏、青野紗穂、池岡亮介、宮城紘大、上山竜治
渡辺菜花 金井菜々 大津夕陽
ピアノ:森本夏生
チェロ:白神あき絵
【原作】森下suu「ゆびさきと恋々」(講談社「デザート」連載)
【脚本】飯島早苗
【音楽:荻野清子
【演出】田中麻衣子
【振付】前田清実
【手話指導】三浦 剛/忍足亜希子
【公式サイト】https://yubisakimusical.westage.jp/