岩松了が書き下ろし、森田剛が演じる“恋愛”にまつわる揺れ――『空ばかり見ていた』レポート


2019年3月9日(土)に開幕した『空ばかり見ていた』。本作は、劇作家・岩松了が長年出演を熱望してきた森田剛を主演に迎えて書き下ろされたもの。あて書きというのも納得の、森田の力を感じさせる場面が多々あり、共演の勝地涼、平岩紙、筒井真理子、宮下今日子、豊原功補、村上淳ら誰もが、役として、俳優として魅力を感じられる新作だ。岩松了のしなやかな“言葉”の魔力の中で、俳優たちが紡ぐドラマティックかつ繊細な物語を、レポートする。

物語の舞台は、おそらく日本のどこか。反政府軍のアジトとなっていた小学校。そこに一人の男・多岐川秋生(森田)がやってくる。そんな秋生の前にあらわれる仲間たち。彼らは生きているのか、死んでいるのか、夢か、現実か、妄想か・・・。

011566_4.jpg

山奥の元小学校にある反政府軍のアジトでは「女性兵士になりたい」と訴えるリン(平岩)を、兄でありリーダーの吉田(村上)が突っぱねていた。反政府軍の兵士はすでに多くの仲間を失い、生き残っているのはアジトにいる7名と、司令官に会いに外出している秋生のみ。そのほかアジトには2名の捕虜(豊原、二ノ宮隆太郎)がいる。

いつ政府軍に見つかるとも知れないアジトだが、そこには、スカートスーツ姿の生保レディ・田中(筒井)がやってきては元気におしゃべりしている。また、一人の兵士の母親(宮下)も派手なワンピースで香水をふりまきながら息子の様子を観に来る。まるでデパートに買い物にでも着たような気軽さだ。兵士たちも緊迫はしているものの、笑ったりふざけたり、なんだかのどかでもある。

しかしその頭上には、政府軍のヘリが飛ぶ。どこから見られているかもわからない空。いつ攻撃が来るとも知れない空。青い空を見上げながら、彼らは明るく生活を送る。銃を肩にぶらさげて。

ある日、リンが何者かに襲われ負傷した。外出中だった秋生は、慌ただしくアジトへ戻ってきて恋人であるリンに寄り添うが、暴漢の正体はわからないまま。時間が刻々と過ぎていくにつれ、秋生の心境は少しずつ変わっていく。自分は本当にリンを愛しているのか、本当に吉田を信頼しているのか・・・。ある時、政府軍のスパイによって、彼らは窮地に立たされることになる。

011566_2.jpg

秋生役の森田は、どっしりした存在感で舞台に杭を打つ。表情、仕草、その佇まいだけでなく、声が良い。静かに喋り、低く含み笑いをしていたかと思うと、突然激しく声を荒げることも。その威力に何度か震えた。強い説得力に場がぐっとしまる。

森田は、これまで繊細であったり、不安定な役も多く演じてきた。しかし、秋生は暗さを背負ってはいるが、上司・吉田に信頼され、その妹リンに愛され、論理的で頼りがいのある男に見える。その上で、一瞬の声や表情に様々な感情を感じさせる森田の演技・存在は、何が本当で何が嘘かわからない岩松の戯曲に含みを持たせる。

リーダーの吉田は、怖さも厳格さもあるが、どこかかわいらしく憎めない。演じる村上の人柄もあるのだろうか。兵士である前に人間であり、体温を感じさせる。吉田のもとでなんだかんだ楽しそうにも過ごす兵士らのことを、戦いで死なせたくはないと思うし、親しみを持ってしまう。

その中で、リーダーに信頼され、かつその妹とも恋人である秋生に対し、どこか対等なように接する兵士・土居(勝地)が不穏な雰囲気を漂わせる。爽やかで安定感を感じさせ、ストレートな物言いは力強く、信頼したくもなる。けれど、ちょっとした振る舞いや片方の眉や口角を上げた笑い方などにふと「こいつの言葉は本物か?」と思わせる。些細な行動も「もしかしたら本心は違うのでは?」と深みを感じさせる勝地の存在が、物語に揺さぶりをかける。

また、反政府軍兵士たちのアジトでの異質物である敵兵の捕虜・カワグチを演じる豊原の存在が効いている。木々に閉ざされ空しか見えない山奥で、敵の存在、敵の価値観を感じさせるカワグチには人間味があり、一概に、目の前にいる反政府軍が正しく味方をしたいという気持ちにはさせない。受けては返す、豊原の演技の柔軟さのせいだろうか。

女性たちも魅力的だ。彼らは軍隊という男性社会の中で女性性を感じさせるわけでなく、一人の人間としてそこにいる。平岩の真っ直ぐさは、恋愛の甘さ以上に人としての在り方を貫く。筒井、宮下の、その場の空気を変える力強いコミカルさは、物語全体を明るくさせる。何度も笑わせられた。

011566_3.jpg

岩松了の作品は「静かな演劇」と呼ばれ、30年以上演劇界の先頭を走ってきた。しかし、今回はけして「静か」ではない。内戦という環境で、人々の熱量がドラマティックに渦巻く。若い俳優たちの熱も力強い。

彼らの会話には、岩松戯曲の魅力が散りばめられている。

例えば、台詞と感情がかならずしも一致しないこと。その矛盾はとても人間らしくて観る人を惹き付けるけれど、真意を掴ませない。何が言いたいのかハッキリしない会話が重なり、その先に全体を覆う「空気」が浮かび上がってくる。

また、舞台には様々なメタファー(暗喩)が登場する。空、タイムカプセル、日記・・・「この台詞は、この小道具は、◯◯の感情や関係を暗喩しているんじゃないか?」とイメージをめぐらせるのも、また楽しい。

そして、登場人物らは二つほど前の会話について思い出したように回答する。言われた方は「え、その話題終わったよね?」と思うが、タイミングのズレた会話が反復され、重なることで、言葉が耳に残る。たいていは「もういいよその話は!」「その言葉はどういう意味ですか?」「今、そう言ったでしょう?」と責められるが、何度もしっくりとくる言葉を探す。「俺は確かに◯◯と言ったけれど、あれ、この言葉じゃない気がする。もっと正確な言葉があるような・・・」。何気ない発言を突っ込まれると、言葉を口にした本人すら、自分の発言が正確なのか自信がなくなるものだ。

秋生は、いくつかの過去の出来事についても「その時、誰が、何て言ったんだ?」と正確に知ろうとする。けれど、分かるのは“誰が、どこで、何を言って、何を見たのか”という『その人にとっての事実』だけだ。では、実際は何が真実か、観客は各自で想像するしかない。想像することは演劇の楽しみだが、「これはこういうことなんだろうな」と思わせる罠の可能性もある。その自由度もまた、戯曲の魅力だ。

秋生は、他人に対し正確さを求めながらも、自分自身が正確なわけではない。秋生が「Aだ」と口にしても、演じる森田は背中で「それは嘘だよね?」と思わせる。秋生が「Bかも知れない・・・」と不安そうに呟いても、森田はその表情で「いや本当は違うって秋生自身も分かっているくせに」と思わせる。台詞と感情と表情がちぐはぐで矛盾しているのだ。その矛盾は、観ているものを不安にさせるし、想像力を刺激する。そんな繊細な表現ができる森田剛は、なんて良い俳優なのだろう。

011566_5.jpg

ダイナミックすぎない演出は、描かれているものを分かりづらく感じさせるかもしれない。しかし、登場人物たちの反応を見ていると、彼らの内面にドラマが渦巻いているのが分かる。人間の中にある、言葉と感情、言葉と事実のズレ。そのズレが重なっていくうちに、ズレとズレの隙間に、矛盾した繊細な感情がそっと落ちていることに気づく。言葉遊びのようなズレは、まるで詩のようだ。それがまた、戯曲の美しさの一つでもある。

岩松は上演にあたり「“恋愛”がそれだけでは成立しないおもしろさを描きたい」とコメントしている。秋生のリンへの恋だけでなく、舞台上に見える関係性は、どれも愛だけで成立している純粋な愛とは言えない。けれども人間は「愛」に付随する様々な因果関係を無視した時に、本当に、ただ純粋に、愛情だけで誰かと関係を築けるだろうか。だからキッパリと分けずに曖昧にして、すべてひっくるめて「愛してるよ」と人は言い、円満に過ごしているのかもしれない。

それは戦争(内戦)も同じで、誰が正しく、誰が敵だとキッパリと分けてしまったら争いは終わらない。いろんなモヤモヤや曖昧さを抱えて空を見ている時は、目の前の誰かとキッパリ向き合わなくていいかもしれないけれど。

秋生は曖昧さをはぶき、正確な事実を突きつめる姿勢をみせてはいるが、果たして本気で知りたいと願っているのだろうか。本当にリンを愛しているのか、本当に吉田を信頼しているのか、リンを襲ったのは誰なのか・・・。小学校の庭に埋まっていたタイムカプセルを掘り出しては、また埋めるように、秋生は正確な事実を探すものの、時には見つけた答えを土に埋めて見なかったことにもする。その模索は悲劇的であり、ある意味で喜劇的だ。

秋生を見ていると、ふと、彼が持て余している矛盾や曖昧さの置き場が見つからず、呆然としてしまう。そうなったら、こちらも曖昧に泣き笑いを浮かべ、空を見上げるしかないのかもしれない。

Bunkamura30周年記念 シアターコクーン・オンレパートリー2019『空ばかり見ていた』は、3月31日(日)まで東京・Bunkamura シアターコクーンにて、4月5日(金)から4月10日(水)まで大阪・森ノ宮ピロティホールにて上演。

【公式HP】https://www.bunkamura.co.jp/cocoon/lineup/19_sorabakari/

(取材・文/河野桃子、撮影/細野晋司)

チケットぴあ
最新情報をチェックしよう!
テキストのコピーはできません。