監獄島で男たちはなぜ『アンチゴーネ』を上演しようとしたのか?/イマシバシノアヤウサ『アイランド』稽古場レポート


上演を重ねるごとに、より作品の骨格が磨かれ、シャープとなるのが生の舞台のおもしろさ。また、口コミで評価が浸透し、思いがけず良作にめぐり逢うチャンスが広まるのもロングラン公演ならではの醍醐味だ。しかし、日本ではごく一部の人気演目を除いて、ロングラン公演はあまり多くない。特に小劇場に限定するとその傾向は顕著で、1~2週間で千秋楽となるケースがほとんど。多くの作品があっという間に消費され、観客もまた優れた作品と出逢う機会を損失している。

そんな中、ロングラン公演の可能性を信じ、意欲的な活動に取り組んでいる団体がある。それが、イマシバシノアヤウサだ。イマシバシノアヤウサとは、文学座の鵜山仁、浅野雅博、石橋徹郎の3人による演劇ユニット。

これまで『モジョ ミキボー』(2010年初演・2013年再演)、『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』(2015年)と優れた翻訳劇を上演。小劇場+自主企画という規模では異例の1ヶ月にわたるロングラン公演を成功させてきた。

そして、4年ぶりとなる今作では、2014年に高松宮殿下記念世界文化賞を受賞した南アフリカの作家、アソル・フガードの『アイランド』を上演する。今回は、その創作の現場を取材した。

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アソル・フガードの『アイランド』と聞いてピンと来る人は、よほどの演劇通だろう。これまで何度か上演はされているものの、日本では決して馴染み深いとは言いがたい戯曲だ。しかし、アソル・フガードの戯曲は今や世界中で上演され、南アフリカ共和国出身の白人作家として、執筆を通じてアパルトヘイトと戦い続けたことでも広く知られている。

この『アイランド』もまた彼のそんな作家性と切り離して語ることはできない作品だ。登場人物は、ジョン(浅野)とウィンストン(石橋)の二人だけ。彼らが収監されているのは、ケープタウン沖合に浮かぶロベン島。そこは、アパルトヘイト体制下、ネルソン・マンデラ元大統領ら政治犯が収容された監獄島だ。ジョンとウィンストンもまた不条理な人種差別に抗った結果、家族と引き離され、この流刑地に“島流し”にされてしまった。

終わらない単純な肉体労働に心も体も削り取られていくジョンとウィンストン。物語は、そんな彼らの日常から幕が開く。

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唸り声のようなサイレンと、無限ループのような波の音。その中で現れるジョンとウィンストン。スコップを地面に突き刺し、砂を掘る。掘った砂がいっぱいになったら、運搬用の一輪車を押し、所定の場所まで運ぶ。そして、また元の位置に戻ってスコップを地面に突き刺し、砂を掘る。それだけの単純作業が、延々と続く。会話もない。お互い目を合わせることもない。

まるで機械のように、ただ黙々と砂を掘り、運ぶ。その整頓されたリズムに、観客は徐々に異常さを見出していく。こんな生活、心を殺さなければ、あっという間に気が狂ってしまう――何の台詞も説明もないのに、冒頭からのほんの数分で彼らに人間らしい尊厳が認められていないことが伝わってくる。

長い長い苦役が終わり、彼らは監獄で休むことを許される。看守の胸三寸で、ただ虐げられるだけの日々。狭い牢獄は、疲弊と苛立ちが充満していた。看守への怒りに声を荒げるウィンストンと、途方のない生活に諦念を見せるジョン。浅野と石橋のよく通る声が、静かな稽古場にほの暗い収容所の絶望感をつくり出していく。

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希望を抱くことさえ許されないような毎日の中で、ジョンが見出した唯一の光明が、『アンチゴーネ』だ。6日後に控えた収容所内の演芸会で、二人は『アンチゴーネ』を上演するという。『アンチゴーネ』とは反逆者として野ざらしにされていた兄の遺体に弔いの土をかけたことを罪に問われたアンチゴーネが、法や権力に屈することなく、自らの正義を貫くギリシア悲劇だ。

国家に刃向かってでも信念を守り抜いたアンチゴーネの姿に、理不尽な差別と迫害に苦しむジョンが、自らを重ねたことは想像に難くない。何とか『アンチゴーネ』を上演しようと躍起になるジョンと、嫌がるウィンストン。浅野と石橋による押し問答が、深刻な状況下の中で奇妙なユーモアを伴い、観る者の心をほぐす。

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厚い壁に覆われた監房と、周りを海で囲われた孤島。あらゆるものから遮断され、娯楽も何もない生活で、彼らにとって唯一の楽しみは、夢想することだった。その日もジョンはコップを電話に見立てて、海の向こう、故郷で暮らす馴染みの面々に電話をかけるお芝居をする。盟友たちに、愛する家族。微笑ましかったはずのその戯れは、やがて言いようのない哀切を帯びてきて、胸がつまりそうになる。なぜなら彼らはこの島から出ることも、家族の声を聞くことも叶わないのだから。

第一場は、そんなふうに彼らの置かれた状況を描写しながら、物語が進む方向性を指し示して次の場面へと移る。アパルトヘイトという負の遺産を根底に敷いてはいるが、決して政治色の強い社会派作品というわけではない。むしろもっと根源的な人間の尊厳について迫ろうとしているのだという印象を受けた。

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浅野と石橋は、今回の公演に至るまでに合計で数十本に及ぶ戯曲を読みあさったと言う。時には図書館の書架に眠る秘蔵の一篇まで掘り起こし、検討に検討を重ねた上で、選んだのがこの『アイランド』だ。

今作を選んだ理由のひとつに、二人は「ロングラン公演に耐えうる力があるかどうか」と説明した。足腰の弱い戯曲では、長期に及ぶ公演期間であっという間に消耗されてしまう。1ヶ月かけてなお戯曲の奥底にあるものを演じ手が探ることができるような懐の広さと、いかなる時代や社会背景においても価値が色褪せない強靱さがなければ、ロングラン公演をする意味がない。この作品には、OFF・OFFシアターで1ヶ月演じ続けるだけの普遍性がある。そう確信したから、二人は『アイランド』を選んだ。

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俳優二人の会話劇だが、同じ文学座で育った浅野と石橋だけに、息の合ったやりとりはお手のもの。『アンチゴーネ』の上演に意欲を燃やすジョンと、消極的な態度のウィンストンの関係がここからどう転がっていくのか。この先の展開を期待させる出だしとなっている。

前2作も二人芝居ではあったが、『モジョ ミキボー』では17役、『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』でも10役以上を二人で演じ分けるというスタイルだった。対照的に、今作は1役のみ。その分、それぞれの登場人物の背景を徹底的に掘り下げ、そこから見える関係性をしっかり突きつめて臨むことになるだろう。そういった意味では、前2作以上に二人芝居の妙味を味わい尽くせる作品となるはずだ。

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イマシバシノアヤウサ『アイランド』は、8月1日(木)から8月25日(日)まで東京・下北沢OFF・OFFシアターにて上演される。なお、8月1日(木)・8月2日(金)はプレビュー公演として前売・当日共に2500円で鑑賞できる。たった二人の出演者で1ヶ月というロングランに挑む、小劇場では無謀とも言える挑戦の行方を、ぜひ見届けてほしい。

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【公式HP】https://ameblo.jp/mojo-mickybo/
【公式Twitter】@IMSA_2019

(取材・文・撮影/横川良明)

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