欲望と愛憎の行きつく先は・・・内野聖陽×寺島しのぶ『禁断の裸体』観劇レポート


4月4日に東京・渋谷のシアターコクーンで開幕した舞台『禁断の裸体』。ブラジルの演劇界に革命を起こしたネルソン・ロドリゲスの戯曲を、もがきながら生きる若者の生態をリアルに描く手法で日本の演劇界に衝撃を与えた「ポツドール」の主宰・三浦大輔が演出する注目の作品だ。

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舞台はブラジル。出張から帰宅し、メイドから一本のテープを渡されるエルクラーノ(内野聖陽)。そこには「私はこれから自殺する。これは死んだ女からの言葉よ」という長い独白が録音されていた。呆然と佇むエルクラーノ。そこに至るまでに一体どんな事があったのか…。

時は遡り、妻を乳がんで亡くして憔悴しているエルクラーノの許に、折り合いの良くない弟・パトリーシオ(池内博之)が、一枚の写真を持ってくる。映っているのは裸体の娼婦・ジェニー(寺島しのぶ)。敬虔なカトリック教徒であり、妻の死から立ち直れていないエルクラーノは最初こそ抵抗するものの、すぐにジェニーの肉体の虜になり、次第に彼を取り巻く全ての歯車が狂っていく・・・。

エルクラーノを演じる内野聖陽は、娼婦にのめり込むことで崩れて行く中年男性の様を魅力的に表現。カトリックの信者であるという”公”の顔と、男として“性”にのめり込む動物のような姿の二面に説得力を持たせ、観客を物語の世界に引き込んでいく。ふとしたきっかけで自分の価値観や倫理観が崩壊し、理性と本性の間を彷徨う姿はミドルエイジの男性から見ても共感できるのではないだろうか。

娼婦・ジェニー役の寺島しのぶは、怠惰な生活を送りながらもどこか“他の娼婦とは違う”独特の佇まいを体現。一幕で見せる攻めの姿勢と、二幕で見せる恋に落ちた女の受け身に回る演じ分けが面白い。

『禁断の裸体』

一族から認められず、自堕落な毎日を送っているパトリーシオ役の池内博之は、あえて“だらしない身体”を作り、刹那的な日々を生きる男を好演。パトリーシオはある意味、本作のキーパーソンになる訳だが、彼の行動のベースには常に怒りや恨み、認められない人間の哀しみがあり、その姿はどこか切ない。

エルクラーノの一人息子、セルジーニョを演じる野村周平は、体当たりとも言える演技で二幕の主軸となり、三人のおば達(木野花、宍戸美和公、池谷のぶえ)は、ブラジルにおけるカトリック信者の”家族“の象徴として登場しつつ、軽妙なテンポの台詞の応酬で客席の笑いを誘う。

白を基調に作られた二階建てのセットの最上部には複数の十字架が吊られており(美術 田中敏恵)、日常生活の中で「神との関係」を重視するブラジルのカトリック教徒の心中がビジュアルで表現されている。彼らにとって神の存在と家族との絆は絶対なのだ。

その規範の中で、それまで疑問を持たずに生きてきた一人の男が一人の娼婦と出会い、彼女に溺れて行くものの、ある事件の際、事前まで必死に娼婦の身体を求めていたことが嘘のように男は彼女に乱暴な言葉を浴びせかける。「お前なんてメス犬だ!」。そして女も、「性」を売りにする自堕落な生活から「恋」をする一人の女に変容していき、物語は衝撃的な結末を迎えるのだ。

決して明るいストーリー展開ではない本作だが、陰鬱な感じは一切なく、むしろ笑いどころが各所に仕込まれていたり、そのセクシーさにドキドキする場面があったりして、間口の広い作品に仕上がっている。観た人誰もがブラジルの熱い空気を想い、その身を焦がすのではないだろうか。

本作が「禁断の裸体 内野聖陽×寺島しのぶ×池内博之×野村周平 作:ネルソン・ロドリゲス 上演台本・演出:三浦大輔」と題して、2015年6月27日(土)22:00からWOWOWライブにて放送される。WOWOWの番組ページでは予告動画を配信中。ぜひご観賞を。※R15+指定相当

撮影:渞 忠之

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