『奇子』演出家・中屋敷法仁インタビュー「ずっと舞台化したいと言い続けてきた」


手塚治虫の作品の中でも、とりわけ人間の闇を描いた漫画「奇子」が、2019年7月に舞台化される。一族の財産をめぐる争い、政治策謀、少女監禁、近親相姦などセンセーショナルな題材を通して、戦後の日本の闇を描き、今なおファンの多い作品だ。

東北の田舎、大地主の一族に産まれた少女・奇子は、打算的な一族の体面のために土蔵の地下室に幽閉されることに。大人たちに翻弄され、外界を知らない奇子は、やがて“生”にも“性”にも奔放な美しい女性として育っていく・・・。この「奇子」舞台化を切望してきた中屋敷法仁が、上演台本・演出を担当する。なぜ人々は“奇子”に惹かれるのか・・・舞台化にあたり、中屋敷の話から作品の深淵を覗く。

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『奇子』を生身の人間で観たい

――「奇子」はずっと舞台化を熱望してきた漫画だそうですね。出会いはいつですか?

小学生だったかな、物心ついた頃には夢中で読んでいました。父が手塚治虫さんのファンで、家中に漫画がいっぱいあって。でも、その中でも「奇子」は、子どもにあまり読ませようとはしていないと感じていたんです。実際、読んでみて「これはヤバい作品を読んだな・・・」と。僕がマンガを読んだ時も1ページ1ページが重くて、決してめくりたいわけではないんですが、読まずして本棚に戻すことを許さない力があった。「奇子」が本棚にあるだけで、本棚そのものの存在感がとてつもなく強くなるような・・・すごく思い入れの強い作品です。

――読んでみた印象は?

子どもの時は奇子の気持ちで読みました。奇子は家の都合で幼い頃に地下牢に幽閉されてしまうんですが「どういう気持ちなんだろう」「かわいそうだな」と思っていました。でも、今になって考えると、奇子自身はこの状況をどうすることもできないんですよね・・・。奇子は、象徴なんですよ。「鉄腕アトム」が夢や希望の詰まった科学の子だとすると、「奇子」は戦後の人間がどこかに閉じ込めておきたいものが詰まった子。我々は戦後、たぶん奇子みたいなものをたくさん産んできているんです。

しかも手塚治虫は、その象徴を「子ども」にすることで、嫌な部分をすべて子ども=下の世代に押しつけて明日を見てしまう残酷さを描いている。それが、ここ40年ほど子どもが減り続けているこの国でどう受け止められるのか、興味があります。

――なぜ舞台化したい、と思ったのでしょう?

演劇の喜びって、生身の人間が演じていることです。僕は、「奇子」が手塚治虫作品における最高傑作だと思っているので、それを生身の人間で見てみたい。学生時代からずっと「『奇子』を舞台にしたい」と言ってきました。自分から舞台化したいと言ったことはほかにないんじゃないかな。それぐらい、ただただ観てみたかった。舞台化してくれるなら僕じゃなくてもよかったんですけど、誰もやらないから僕がやります(笑)。

――ついに実現ですね!

今の時期に上演できることは、すごく時代性に合っていると思います。昭和も平成も終わり、時代が人の関心や怒りをないがしろにしていくような、時の流れの残酷性をまざまざと感じられるこのタイミング。その焦りを体現できる良い俳優さんも揃って、この時期に演じられることになりました。

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マンガと演劇は、表現できることが違う

――物語としては原作どおりの構想なんでしょうか?

漫画の「画」を舞台に持ち込むのではなく、描かれている人間関係や人間の姿を演劇にしていきます。「奇子」って“漫画の魔法”が少ない作品なんですよ。「鉄腕アトム」みたいに空を越えて10万馬力で飛んだりせず、真剣に人間ドラマに打ち込んでいる。誤解を恐れずに言うなら、「文学」に近いなと。

――漫画を再現するわけではない。とはいえ漫画のキャラクターを生身の身体で表現するわけですが、その際、どんなことを大事にしますか?

俳優の皆さんがいい骨格をしているので、それぞれの身体的なスタイルをうまく活かせればいいですね。たとえば「奇子は長い間、地下牢に閉じ込められてたから立って歩かないんじゃないか」とか「誰もいないし暑いから上裸になるよなぁ」とか「この人物は人前では着飾るけどこういう時はこう見えるよね」とか・・・人間の身体がどう見えて、どういう状況にあるかを漫画から読み解いて、生身の身体で表現したいです。

――事前に漫画を読んでから舞台を観ても、また発見がありそうですね。

先に読んでおくのも、おもしろいと思いますよ。漫画と演劇の表現の違いを楽しんでもらえるんじゃないかな。例えば漫画ではすごく印象的な、山の上から足元に広がる田んぼを眺めるシーンや、地下牢の中の奇子を俯瞰して見下ろすシーンは、きっと舞台で表現しても全然インパクトがないだろうからやらないです。逆に、このシーンは漫画だと印象が薄かったけど、舞台だとすごくエネルギーのある場面だろうなというシーンもある。やっぱり漫画と演劇は違う。演劇だからこそ意味のあるシーンをたくさん拾っていけたらいいなと思っています。

――演劇ならではの「奇子」を、ということですね。

今はいろんな技術やメディアが発展していますが、これこそ生身の人間だ、という表現をしたいですね。人間を見るのにうんざりしている人たちにこそ、観ていただきたい。人間ってこんなに醜くて美しくて愛おしいものなんだって感じてほしいんです。その世界を手塚治虫さんと、俳優たちと、「奇子」という作品で実現したいです。

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この舞台で、必ず「俳優を裸にする」

――舞台化にあたっての一番の壁はなんでしょう?

俳優さんには嫌がられるかもしれないけど・・・多少なりとも、俳優さんたちの“本性”に触れなければいけない作品だなと思っています。「奇子」に登場するのはピーターパンみたいなファンタジーの人物ではなくて、とてつもなく現実的で人間くさいキャラクターたちなので、演じるにあたっては、本人の体験や醜さを手がかりにしていかないと役を探れないという気がしています。

――“本性”・・・その人の内面ということですか?

そうですね・・・例えば、五関(晃一)さんの演じる仁朗という役は、ものすごくいろんな顔を持っています。GHQを相手にして、村も、家族も、マフィアも相手にしている。四方八方にいろんな顔を見せるので、本当はどんな人物なのか見えなくなりそうな気がします。でも、いろんな相手との会話を重ねていくことでその人の内面が現れてくるんじゃないかな。この人はどんな人と話してもこの信念は譲らないんだなとか、この人はどんな時も根本的に女性蔑視なんだなとか、いろんなことが見えてくる。この時に見える人間の本性って、環境の「縛り」や「絆」から生まれるんですよ。

――「絆」は一つのキーワードですね。上演にあたってのコメントでも、中屋敷さんは「『奇子』は、絆のおぞましさが痛々しいまでに描かれている」「愛おしくもおぞましい“絆”の物語を生身の俳優たちの身体で蘇らせたい」と述べています。

「絆」って、“家族”という最小単位から“村”“国”“世界”へと広がっていく。それぞれの「絆」に縛られた場所に応じて見えてくるいろんな自分が、その人間の本性だと思うんです。それを描きたいです。

――その“本性”を俳優が表現するコツはあるんですか?

目の前の相手と喋らないというのがポイントですね。人って、目の前の人としゃべっていても「家に帰って家族と会いたいな」とか「恋人と早く別れ話しなきゃ」とか考えているでしょう?むしろ、目の前の相手と純粋に100%向き合うことができるのって子どもしかいない。

――それで言うと、奇子だけは違うのでは。奇子は成長しても、無垢な子どものような性格です。

そう。すべての人間は未来と過去の話しかしなくて、今この瞬間のことを考えられるのは赤ちゃんか子どもだけと言われています。大人は「このパン美味しいね」と言う時も、そう言うことで人間関係を円滑にしようとか、何かしらの意図があるんです。そういった本心と人間関係の重なりが演劇的なんですけど・・・。でも、奇子だけはその場その瞬間の会話をする。即物的な、動物に近いまま大人になっているなと思います。

――その奇子を演じる駒井蓮さんはいかがでしょう?

駒井さんは、出演者の中ではキャリアが圧倒的に少ないので、この現場で駒井さんを産み育てることになる気がしています。みんなが駒井さんの反応を楽しみに演じることになるでしょうね。駒井さんがどう転ぶかは僕ら次第。デリケートに扱いながらも、いろんな方向に影響を与えていかないといけないなと思います。

――ほかの出演者の方はいかがですか?

五関くんも三津谷(亮)くんも味方(良介)くんも、これまですごく素敵なところをたくさん見せてくれているのに、本当に本性が分からない俳優なんですよ。一番舞台を一緒に創っている三津谷くんでさえ、やればやるほど本性が分からない。内面と外面がまるで違うんですよ。味方くんもそう。僕は、これまでいろんなところで「俳優さんを裸にしたい」と言っていますが、この作品では必ず裸にします。五関くんは素晴らしいパフォーマーですが、一人の人間としてどんな人なのかまったく分からないので、剥がしがいがありますね。駒井さんだけは最初から剥げてしまっているので、剥き出しの身体で稽古場に参加してくれるのではないかと。

――彼らとこの舞台にどのように取り組みますか?

皆さんすごい俳優だし、知っている方々が多いので、どう舞台化するかという点は、すでに攻略できています。稽古一週間くらいで舞台の形はほぼ完璧にできあがるんじゃないかな(笑)。でも演劇って、お客様の目をどのくらい背けられるかの勝負だと思うんです。最高のパフォーマンスでお客様を惹きつけるだけでなく、「見たくないけど見なきゃいけない」という気持ちにさせなければいけない。特に「奇子」は、重苦しいけれど目を背けることを許さない舞台にすることがテーマですね。

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『奇子』から覗く、時代の深淵

――中屋敷さんは青森県出身。『奇子』の舞台と同じですね。

描かれている世界観は、よくわかります。でもその原風景は、終わっていく風景ですね。手塚治虫さんは、昭和という時代の暗黒面を描くにあたって、青森県から物語を始めている。都会と田舎・・・その視点の落差はとても演劇的です。チェーホフだって、田舎から都会・モスクワ=未来のことを眺めていますしね。

――『奇子』ではさまざまな人の思惑によって、破滅的な状況に陥っていきます。誰が一番「罪深い」と思いますか?

うーん・・・例えば、何かとんでもない罪を犯した人がいたとした時に、悪いのは親とか時代とか社会だと考えられるかもしれない。そう簡単に犯人だと言いきれる誰かがいるわけじゃない。でもそこで「あれは◯◯が悪かった」と言いきってしまうと、「自分は悪くないし、関係ない」と逃げてしまえるんです。そんな怖さが「奇子」にもある。

誰が悪かったんだろうって、お客様一人ひとりに聞いていきたいぐらいですよ。きっと、作品をどう見るかによって感想が違う。今の時代だと悪いけど、当時だと悪くなかったんじゃないかということもある。そういう時代の差から現代人の価値観を探ることもできたらいいなと思います。

僕は、財産や、名誉や、肉体的な快感が一番「罪深い」と思うんです。そういうものを欲しがるから傷つけあったりする。天外家は、家を守るために小さな女の子を地下牢に閉じ込めますが、それは家が裕福で社会的に地位があったら当たり前のことかもしれない。財産があることが、そもそも罪深いのかも・・・そう考えていくと、人間の幸せとは何なのかということも作品のテーマの一つになりえますね。「奇子」は「これが正しい」と言いきれない作品です。子どもの頃も今も、答えが出せない。だからこそすごく惹かれるんでしょうね。

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◆公演情報
手塚治虫生誕90 周年記念事業 パルコ・プロデュース 舞台『奇子』
【原作】手塚治虫
【上演台本・演出】中屋敷法仁

【出演】五関晃一(A.B.C-Z)
三津谷亮 味方良介 駒井蓮 深谷由梨香 松本妃代 相原雪月花/
中村まこと 梶原善

【プレビュー公演(水戸公演)】2019年7月14日(日)・7月15日(月・祝) 水戸芸術館ACM劇場
【東京公演】2019年7月19日(金)~7月28日(日) 紀伊國屋ホール
【大阪公演】2019年8月3日(土)・8月4日(日) サンケイホールブリーゼ

※手塚治虫および手塚プロダクションの「塚」の字は、旧字体が正式表記

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