“たとえ命尽きても”渾身の遺作——文学座『明治の柩』観劇


(右から)旗中役・石田圭祐、岩下役・加納朋之、豪徳役・得丸伸二

日本初の公害問題「足尾銅山鉱毒事件」をテーマにした宮本研の大作『明治の柩』が、文学座により東京・池袋あうるすぽっとで上演されている。鉱毒被害に見向きもしない政府と戦い続けた政治家、田中正造の後半生を描いた3時間の超大作だ。本作の演出家、高瀬久男は、2015年6月11日(木)の初日を迎えることなく、1日(月)に上咽喉がんのためこの世を去った。本作は、1年半前に上演を決めてから「たとえ命尽きても」と意欲的に取り組んだ、高瀬の遺作である。

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「政治を変えるにはどうすればいいのか?」「憲法は人民のためにあるのか?」
大正2年に衆議院議員田中正造によって告発された、足尾銅山鉱毒事件。足尾銅山から流れ出す鉱毒に、田畑は荒れ、体は毒され、近隣の村人たちがデモを起こしても憲兵隊の暴力の返り討ちにあう。政治家の旗中正造(田中正造がモデル)は、議会で何度も足尾銅山の汚染を訴えるも受け入れられず、死刑覚悟で天皇に直訴する。
議会では政治は変えられないと思った旗中は議員を辞め、汚染された村の人々と共に生きる道を選び、キリスト教社会主義社の岩下(モデルは木下尚江)や社会主義社の豪徳(モデルは幸徳秋水)ら立場の違う人々と白熱した議論を交わす。彼らに影響を受けた若き農民たちも立ち上がり、それぞれの信念で社会変革を目指していく。

新劇の文学座らしく、写実的で重厚なストレートプレイだった。今回の『明治の柩』でも、鉱毒被害による農村の貧困や苦悩が、まるで目の前に広がる光景のように描かれている。重みのある演技のベテランが物語を支えていた。

文学座『明治の柩』
旗中(右)と憲兵に虐げられる農民たち。舞台美術(島次郎)では、本物の水(足尾銅山の毒水)が落ちてくる。

演出の高瀬は、過去演出作品でも、土を踏みしめるように生きる人々を重力をもって描いていた。思い返せばとても真面目で、妥協のない厳しさを相手に伝える優しさを持った演出家だった。全身で対峙するように台本に向き合う姿勢は、公演会場のロビーに掲示された演出ノートからも見てとれる。数ページにわたって手書きでびっしりと描かれたノートには、「この作品の本質とは」「なぜ今この作品を上演するのか」など丁寧に書き起こされていた。
高瀬が亡くなった後、出演者や、文学座の他の演出家の間で議論を積み重ね、この舞台をつくりあげたという。高瀬の情熱を継いでの上演である。それは旗中正造らに影響され、独自の道を歩んで行く若者たちのようだ。ラストシーンの旗中正造の「柩」は、高瀬の柩にも見え、その白い柩を人々が取り囲む姿は、高瀬の意志を受け取った劇団員たちの姿に重なった。

文学座『明治の柩』

鉱毒事件の結末は…歴史を見てのとおり。田中正造の死から60年後に足尾銅山は閉鎖されたものの、2011年に発生した東日本大震災の影響で渡良瀬川下流から基準値を超える鉛が検出されるなど、21世紀となった現在でも影響が残っている。

その大問題のなか生きる人々をとりまく状況には、昨今の原発事故や集団的自衛権の問題を突きつけられているような普遍性がある。議論に正解はなく、登場人物の誰もが少しずつ間違っており、正しい者も勝者もひとりとしていない舞台。できれば未来をつくる若い人々に観てもらい、自分たちの生活を考えるきっかけになればと思う。また、キリスト教を「耶蘇」と呼んだり、天皇崇拝の思想が根源的にあったりなど、今の若い観客には理解しづらい表現もいくつかあったが、それでも自分のこととして受け止められたのは、ときに感情的ではあるが、素直な芝居をみせる若い役者たちが、新しい風を舞台に吹かせてくれたからかもしれない。

『明治の柩』は、池袋あうるすぽっとにて6月24日(水)まで上演される。見逃してしまった方も、重量感のある作品を創り続ける文学座の今後の公演にご期待いただきたい。

写真提供:文学座、撮影:宮川舞子

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