【追悼・蜷川幸雄さん】「お前、なんで自分が受かったか分かってんの?」


2016年5月12日、日本の演劇界・・・いや、世界のエンターテインメント業界を揺るがす報道が駆け巡った。演出家・蜷川幸雄氏死去のニュースである。享年80歳。各マスコミが報道と共に出した写真の中では、相変わらず細いフレームの眼鏡をかけた蜷川さんが、どこか照れ臭そうなお顔で微笑んでいた。

今回は日本の演劇界に類を見ない“風”を吹かせた蜷川幸雄氏について、私の心の中に在るささやかな思い出と共に語っていきたいと思う。

アングラから商業演劇へ…そしてあの“出会い”

蜷川幸雄氏は1935年埼玉県川口市生まれ。名門・開成高等学校に一浪の末に入学し、開成卒業後は東京藝大を目指すものの受験には失敗。その頃観た安部公房作品に感銘を受け「劇団 青俳」に入団するが、当初は演出家ではなく、俳優として活動していた。その後、自分は俳優に向いていないと悟った氏は1968年に「劇団 現代人劇場」、1972年に「演劇集団『櫻社』」を創立。劇作家・清水邦夫氏や唐十郎氏らと組み、学生運動の熱が残る東京・・・・・・主に新宿の劇場で次々と斬新な舞台を上演していく。

そんな蜷川氏が大きな転機を迎えたのが1974年だ。それまで小劇場で“アングラ”と呼ばれる作品を多く手掛けてきた氏が、シェイクスピアの古典作品『ロミオとジュリエット』で大劇場・・・・・・いわゆる“商業演劇”の世界に進出したのだ。この時のロミオ役は松本幸四郎、ジュリエット役は中野良子。日生劇場での公演であった。

『ロミオとジュリエット』の成功を受け、その後も蜷川氏は有名俳優を起用し、大劇場での公演を精力的に打ち続ける。舞台を日本の戦国時代に置き換え、仏壇の中で展開する『NINAGAWAマクベス』(1980年 平幹二朗/栗原小巻)や、巨大なひな壇を階級社会に見立てた『ハムレット』(1988年 渡辺謙/荻野目慶子)等は国内外で大きな話題となった。

そして『ハムレット』の翌年、氏はその後の演出作品に欠かせなくなる一つの“出会い”を手にする。それは今となっては蜷川作品の“常連”と言っても良いだろう、ジャニーズ事務所との連携である。1989年『唐版・滝の白糸』で当時男闘呼組に所属していた岡本健一を、同年の『盲導犬』でSMAPの木村拓哉を起用したのを皮切りに、2000年代には岡田准一(『エレクトラ』)、二宮和也(『シブヤから遠く離れて』)、松本潤(『白夜の女騎士』『あゝ荒野』)、森田剛(『血は立ったまま眠っている』『祈りと怪物』)、上田竜也(『冬眠する熊と添い寝してごらん』)、亀梨和也(『青い種子は太陽のなかにある』)等、次々に“旬”のアイドルをメインキャストに据え、作品を発表し続けたのだ。

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この蜷川氏のキャスティングに対して、斜め上からものを言う“大人”たちも大勢いた。「アイドルを芝居に出すなんて 笑」というアレだ。だが、氏はある時期からさまざまな稽古場で「売れている奴は怖い、彼らはやるよ」と言い続けてきた。実はこれに近い言葉を私も稽古場でぶつけられたことがある。

“旬”の俳優たちを起用し、若い世代を劇場に呼び込む

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あれは‘90年代のはじめ・・・全ての出演者がオーディションでキャストが選ばれた『春』という作品の稽古中・・・・・・ダレ気味の現場で蜷川節が炸裂したのだ。「お前らみたいに養成所や学校でダラダラやってきた奴らなんかより、ジャニーズ事務所のアイドルの方がずっと努力してるし下から這い上がって来てんだよ!ナメてる奴は帰れ!死ね!」・・・・・・この稽古場にはブレイク前の椎名桔平や田中哲司もいたのだが、彼らもきっと、この言葉を今でも覚えていると思う。

そう、蜷川氏はジャニーズ事務所のアイドルを、チャラチャラした若手と捉えていたのではなく、ダンスレッスン場の最後列から這い上がって光の中に立っているプレイヤーだと早い段階から認識し、彼らのポテンシャルを心の底から信じて自らの舞台に起用していたのだ。

「蜷川幸雄」という演出家の功績を改めて考えた時に、私が真っ先に挙げたいのは、先述のジャニーズ事務所のタレントたちをはじめ「“旬”の俳優を使うことによって作品に勢いをつけ、若い観客たちを劇場に呼び込んだ」という点だ。

それまでも氏は映像で活躍している俳優たちを自らの舞台に多く起用してきたが、ある時期から売れっ子若手俳優の登用もさらに積極的に行うようになった。自らが15歳の時に見出した藤原竜也をはじめ、小栗旬、溝端淳平、松坂桃李、菅田将輝、三浦涼介、成宮寛貴、勝地涼・・・・・・彼らがシェイクスピア作品等に出演することで、古典と呼ばれる舞台の客席に若い観客たちが増え、その世代が潜在的に持っていた「演劇=暗くてダサい、小難しい」という概念が、かなりの勢いで取り払われたのである。

古今東西の優れた戯曲を勢いのある“旬”の俳優を使って上演し、興行的にも芸術的にも成功させる・・・・・・この手法を日本の演劇界で誰よりも早く確実に成立させたのは蜷川幸雄その人なのだと確信している。

「余計なこと考えるな、馬鹿!」

最後に、私の中にある氏の思い出を書かせていただきたい。先述した舞台『春』でのこと・・・・・・。オーディションに合格し、何日かに一回行われるトライアル発表会の末、私が演じることになったのは、ボロアパートに住む主人公の青年がなけなしのお金で呼んだホテトル嬢の役だった。それも男の「宮沢りえちゃんそっくりの娘で」というオーダーをことごとく裏切る超不細工な女という設定・・・・・・。

当時演劇科の大学を出たばかりで、外の現場のことはほぼ何もわからない上に、男に「不細工、ブス!」と罵られ、首を絞められたところで居直って「あたしには怖いものなんてないんだから殺しなさいよ」と静かに語り出すキャラクター。一体どうすれば良いのか見当もつかず、途中からほぼ心を閉ざすという、稽古場で一番やってはいけない状態に陥ってしまった私に、ある時氏はこう言った。「お前、なんで自分が受かったか分かってる?」「・・・・・・分かりません」「お前、オーディションの時の顔が面白かったんだよ。大して美人でも上手くもないくせに変に自信満々な芝居で。最初から下手なんだから余計なこと考えるな、馬鹿!」

今回の訃報を聞き、心の奥にしまっていたさまざまなことを思い出す。ジャージで稽古場に入って怒られたこと、役者同士で飲みに行くなと言われたこと、色気がない!と芝居の見本を見せてくれたこと・・・・・・ボロクソにやられて築地の稽古場から銀座に向かう橋を渡りながら一人で泣いたこと・・・・・・。

同じ現場に関わらせていただいたのは一作品だけだったけれど、氏の放つエネルギーは凄まじく、今でもあの稽古場のヒリヒリした空気は一瞬で私の中に甦る。最高に鮮やかで・・・・・・そしてとても痛い体験だった。

蜷川さん、この前コクーンに行った時、無意識にあなたの姿を探していました。渋谷や与野、赤坂、銀座、巣鴨の劇場で観た“血”の匂いがする舞台のこと、そしてあの時、芸劇のステージ上で舞った圧倒的な桜の花びらの美しさと切なさ・・・・・・私は、忘れません。

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